200年以上前に開設された学び舎
江戸時代の藩校「岩槻藩遷喬館(せんきょうかん)」は、1799年 (寛政11年) に岩槻藩士で儒学者の児玉南柯(こだまなんか・1746~1830) が、岩槻城の外郭内裏小路に開いた私塾です。1805年 (文化2年) ~ 1811年 (文化8年) ごろに岩槻藩の藩校になりました。最盛期には広大な敷地に南柯の自宅「梅亭」、武芸稽古所、菅原道真を祀る天神社などが設けられていました。
名前の由来は詩経の「出自幽谷 遷于喬木」によるもので、学問を欲して友を求めることを、鳥が明るい場所を探して暗い谷から見晴らしのよい木に飛び移ることにたとえ、ここで学ぶ藩士に高い志を持つことを促したといわれています。
児玉南柯は、甲斐の甲府で生まれ、11歳の時に岩槻藩士・児玉親繁の養子になりました。「南柯」は儒学者としての名で、本名は「琮(そう)」。16歳で儒学を学び、禅の修行なども積みました。18歳になると江戸・神田にある一ツ橋邸に勤めながら、若殿・忠要の素読相手となり、その後は郡奉行や御側用人、御勝手向取締方などを歴任しました。藩務に大きく貢献しましたが、43歳の時に前任者の不正の責任を取るかたちで職を辞め、研究生活を続ける傍ら、藩主の侍読も勤めていたようです。そして、「遷喬館」を開設し、岩槻藩の子弟の教育に情熱を注いでいくのです。