日本資本主義の父、明治の大実業家の偉業を知る
幕末の天保11年、深谷市の農家に生まれた渋沢栄一は、幼い頃から家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝い、父から学問の手ほどきを受けました。7歳になると、いとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習い、20代で倒幕思想を抱くようになります。栄一は惇忠や惇忠の弟の長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに高崎城乗っ取りを計画しましたが、長七郎は京都での見聞からこれに反対し計画は中止されます。その後、喜作とともに京都へ向かい、江戸幕府の徳川慶喜に仕官することになりました。
江戸幕府で実力を発揮した栄一は27歳の時、慶喜の弟徳川昭武に随行し、パリ万国博覧会を見学。欧州諸国の実情を目の当たりにしに、帰国すると日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を静岡に設立しました。その後明治政府の大蔵省に仕官。大蔵省を辞めた後、「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れるとともに第一国立銀行設立をはじめ設立に関わった企業は500社にも及びました。渋沢栄一記念館の資料室では、栄一の数多くの業績を紹介。渋沢栄一の伝記資料ほか約150点、貴重な肉声テープなどが展示され、どれも興味深いものばかりです。